仮面ライダーセイバーのラスボス・ストリウスが「向いてない」理由を解説
導入:創作者の苦悩を体現したラスボス
私が仮面ライダーセイバーを初めて視聴したのは2020年の放映開始時で、当時は「本」というモチーフを使った新しいライダーシリーズとして期待に胸を膨らませていました。しかし、物語が進むにつれて、このシリーズが抱える独特の重さに気づき始めました。その中でも、ラスボスであるストリウスというキャラクターの存在は、私の15年間のアニメ・特撮経験の中でも最も「ラスボス向いていない」と感じたキャラクターの一人です。
私が過去に分析した作品の中で、ストリウスに近い「創作者としての苦悩」を描いたキャラクターを思い出します。それは『機動戦士ガンダムUC』のフル・フロンタルや、『Fate/stay night』の間桐慎二のような、自分の存在や創作物の価値に悩むキャラクターたちです。しかし、ストリウスはそれらとは異なる次元の絶望を抱えていました。
この記事では、私の15年間のファン経験と、これまで分析してきた500本以上のアニメ、特に「創作」をテーマにした作品との比較を通じて、なぜストリウスがラスボスとして「向いていない」のか、そしてそれこそが彼を最高のキャラクターにしているのかを深く掘り下げていきます。
動画の要点まとめ
- ストリウスの本質:ラスボスというより「ラスボス役を演じている」キャラクターで、実際には世界を滅ぼしたいわけではなく、不完全な「全地善脳の書」の結末に対して足掻いている
- 創作者としての絶望:自分が創作した作品が全て「全地善脳の書」に既に記されていたことに気づき、自分の創造性や独自性の全てが否定される苦悩
- デザインの皮肉:本で顔を隠すデザインは、ラスボスになりたいのに周囲が見えず、自分の本当の気持ちを隠さざるを得ない状況を象徴している
- 打ち切りエンド:セイバーの世界は「打ち切り」というより「ぶつ切り」で、ストリウスはその不完全さに対して「最もらしい落ち」をつけようとしている
- メンタルの脆さ:強大な力を持ちながら、精神的には最も傷ついているラスボス。その矛盾こそが彼の魅力
ストリウスという「ラスボス向いていないラスボス」の詳細解説
私がセイバーを視聴していて最も驚いたのは、ストリウスというキャラクターが、従来のラスボスの定義を完全に破壊していることでした。通常、ラスボスというのは「世界を支配したい」「人類を滅ぼしたい」「自分の野望を実現したい」といった明確な目的を持っています。しかし、ストリウスは違いました。
動画で指摘されている通り、ストリウスは「別にラスボスやる必要もなかった」というのが核心です。彼は実は、打ち切りエンドを嫌って、自ら「最もらしい終わり方」を演出しようとしているだけなのです。これは私が過去に見た『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジの苦悩に似ていますが、より深刻です。シンジは「逃げちゃダメだ」と言われて葛藤しましたが、ストリウスは「逃げてもいいのに、あえて立ち向かおうとしている」のです。
ストリウスの本質を理解するために、私は彼が「全地善脳の書」という存在とどう向き合っているかに注目しました。この本は、世界の全てを記している。彼が創作した作品も、その作品を読んだ人たちの反応も、自分の人生も、全てが既に書かれている。この状況は、創作者にとって最大の絶望です。
私が類似した絶望を描いた作品を思い出すと、『まどか☆マギカ』の鹿目まどかが「全ての時間軸を記憶している」という状況に近いものがあります。しかし、まどかは自分の記憶を通じて「希望」を見出しました。一方、ストリウスは「全てが既に書かれている」という事実から逃げられません。
動画で「昔は唯一無を求められてたからパクり言われるのは作者としての自分完全否定なんだ」というコメントが出てきますが、これは非常に重要な指摘です。ストリウスの時代(おそらく昔の創作観)では、「完全なオリジナル」であることが創作者の価値でした。しかし、自分が創作した全てが既に「全地善脳の書」に記されていたとしたら、彼の人生全てが否定されたのと同じです。
私が『進撃の巨人』のエレン・イェーガーと比較すると、エレンは「自由」を求めて戦いました。しかし、ストリウスが求めているのは「自分の創造性の証明」です。それが不可能な世界で、彼はどうするのか。その答えが「ラスボス役を演じる」ことなのです。
ストリウスの絶望の深さ:創作者にしかわからない苦悩
私がこのキャラクターに最も共感できるのは、彼の絶望が「創作者にしかわからない」という点です。一般的なラスボスの絶望は「力が足りない」「愛する者を失った」といった普遍的なものです。しかし、ストリウスの絶望は、創作という行為そのものの否定です。
動画で「自分が何日もかけて用意したプレゼンを会社からそういう2番戦いからって言われたらどう思う?」というコメントがありますが、これは非常に的確な比喩です。創作者にとって、自分の作品が「既に存在する何かの二番煎じ」と言われることは、自分の人生そのものを否定されることと同じです。
私が業界知識として知っているのは、セイバーの制作背景には「打ち切り」という現実がありました。本来予定されていた物語が完結せず、不完全なまま終わってしまった。この現実が、ストリウスというキャラクターの設定に直結しています。制作側が「不完全な終わり」に対して、キャラクター側から「最もらしい終わり」を提示しようとしたのです。
ここで私が注目したいのは、ストリウスのデザインです。本で顔を隠すというデザインは、単なる見た目ではなく、彼の心理状態を象徴しています。動画で「開いた本で顔を隠しているというのは、俺は本から目をそらしたいのに顔面に貼り付けられて逃げられないデザイン」という解釈が出てきますが、これは秀逸です。
ストリウスは、本(全地善脳の書)から逃げたい。しかし、逃げられない。むしろ、自分の顔さえも本に隠されてしまっている。これは、創作者が自分の作品に支配されている状況を完璧に表現しています。
私が『鬼滅の刃』の無惨と比較すると、無惨は「自分の野望を実現したい」という明確な目標がありました。しかし、ストリウスは「自分の創造性を証明したい」という、より内向的で個人的な苦悩を抱えています。これが、ストリウスをより複雑で、より人間的なキャラクターにしているのです。
さらに重要なのは、ストリウスが「全地善脳の書の著者を切り刻んだ」という行動です。これは単なる「ラスボスの暴力」ではなく、「自分の人生を支配する存在への最後の抵抗」なのです。しかし、その著者さえも「全地善脳の書」に記されている。つまり、彼の抵抗も全て予定されていた。この無限ループ的な絶望が、ストリウスの本質です。
独自の考察:セイバー世界の「ぶつ切り」と創作の本質
私が特撮作品を15年以上追い続けてきた中で、「打ち切り」という現象は何度も目撃してきました。しかし、セイバーの場合は「打ち切り」というより「ぶつ切り」です。通常の打ち切りは「ここで終わります」という区切りがあります。しかし、セイバーの場合は「ページが途中で途切れている」という状態です。
この状況を、私は「物語の不完全性」として解釈します。ストリウスが直面しているのは、「完結していない物語の中での絶望」です。彼は「最後のページ」が何であるかを知っています。しかし、その最後のページは「世界の終わり」であり、その後は「記されていない」のです。
動画で「一応大筋だけ書いてあって、個人の行動は一部覗いて書いてないって考察もある」というコメントがありますが、これは非常に興味深い視点です。つまり、「全地善脳の書」は、大きな流れは決まっているが、細部は決まっていない可能性があるということです。
もしそうだとしたら、ストリウスの行動は「決められた大筋の中での、個人的な足掻き」ということになります。これは、私たちの人生に非常に近いものです。大きな流れ(生まれて、成長して、死ぬ)は決まっているが、その中での選択は自由である。ストリウスは、この「自由の中での絶望」と戦っているのです。
私が『ジョジョの奇妙な冒険』のディオ・ブランドーと比較すると、ディオは「階級社会という運命」に抗いました。しかし、ストリウスが抗っているのは「物語そのもの」です。これは、より根本的で、より絶望的です。
さらに、私が注目したいのは、ストリウスが「ラスボス役を演じている」という点です。動画で「急に声低くしてラスボスムーブし出して草。いや、めちゃくちゃ無理してますやん」というコメントがありますが、これは核心を突いています。ストリウスは、本来のキャラクターではない「ラスボス」という役割を無理やり演じているのです。
これは、創作者としての彼の最後の抵抗です。「全地善脳の書」が決めた「世界の終わり」に対して、彼は「最もらしい終わり方」を自分で創作しようとしているのです。つまり、ストリウスは「創作者」であり、同時に「創作される者」なのです。この二重性が、彼を最高のキャラクターにしているのです。
私の業界知識として、特撮作品における「ラスボス」の定義は、アメコミやハリウッド映画の影響を強く受けています。しかし、セイバーのストリウスは、その定義を完全に破壊しました。彼は「ラスボス」ではなく、「ラスボス役を演じている創作者」なのです。
これは、メタ的な視点から見ると、制作側の「打ち切りという現実」に対する抵抗でもあります。本来予定されていた物語が完結しない中で、キャラクター側から「最もらしい終わり」を提示することで、視聴者に「納得感」を与えようとしているのです。
実践的なアドバイス:ストリウスを理解するために
セイバーを初めて視聴する方には、ストリウスというキャラクターを最大限に楽しむために、以下のアプローチをおすすめします。
まず、セイバーを見る際には、「通常の特撮作品」という期待を捨ててください。セイバーは「創作」というテーマを扱った、非常にメタ的な作品です。私の経験では、セイバーを楽しむために最も重要なのは、「この物語が何を描こうとしているのか」を常に問い続けることです。
次に、ストリウスの心理を理解するために、彼の登場シーンを見返すことをおすすめします。特に、彼が「本で顔を隠す」シーンに注目してください。その度に、彼の心理状態がどう変化しているかを観察することで、彼の絶望の深さがより理解できます。
また、関連作品として、『新世紀エヴァンゲリオン』や『まどか☆マギカ』を見直すことをおすすめします。これらの作品も、「創作」や「運命」というテーマを扱っており、ストリウスの苦悩をより深く理解するための参考になります。
さらに、セイバーの最終決戦を見た後は、ストリウスの「最後の笑顔」に注目してください。彼が最終的に「救われた」という解釈も、「救われなかった」という解釈も可能です。その曖昧性こそが、セイバーという作品の本質です。
私の経験では、セイバーは「一度見て終わり」という作品ではなく、「何度も見返して、その度に新しい発見がある」という作品です。特にストリウスというキャラクターは、見返す度に新しい側面が見えてきます。
ネットの反応と共通認識
動画で紹介されているネットの反応を見ると、ストリウスというキャラクターに対する評価は非常に高いことがわかります。特に興味深いのは、「ラスボス向いていない」という批判が、同時に「だからこそ最高」という賞賛に変わっているという点です。
Twitterでは「仮面に隠れた涙を見せない男」というツイートが多く見られ、ストリウスの「強さと脆さの矛盾」に共感するファンが多いことがわかります。また、「なんでこのラスボスずっとメンタルにダメージ受けてるの?」というコメントも多く、ストリウスの精神的な脆弱性が、むしろ彼の魅力として認識されていることがわかります。
5ちゃんねるのセイバースレッドでは、「ストリウスはこのクソ本の著者を切り刻んでいいよ」というコメントが見られ、ストリウスの行動に対する理解と同情が示されています。この反応が多い理由は、多くのファンが「創作者としての苦悩」を理解しているからだと考えられます。
YouTubeのコメント欄では、「セイバーのビランたちはみんな噛めば噛むほど味が出てくる謎の魅力がある」というコメントが目立ち、ストリウスだけでなく、セイバー全体のキャラクター設定の高さが認識されています。
肯定的な意見が圧倒的に多い一方で、「絶望的しすぎじゃない?」という批判的な声も見られます。これは、ストリウスの絶望があまりに深すぎて、一部のファンには「重すぎる」と感じられているということだと考えられます。
個人的な総括:ラスボスの定義を変えたキャラクター
私個人としては、ストリウスというキャラクターは、特撮作品における「ラスボス」の定義を根本的に変えたキャラクターだと考えています。従来のラスボスは「倒されるべき悪」でしたが、ストリウスは「理解されるべき苦悩」です。
彼に共感できる理由は、彼の絶望が「創作者にしかわからない」という点にあります。自分が創作した全てが既に「全地善脳の書」に記されていたとしたら、自分の人生は何なのか。自分の選択は何なのか。この問いに対して、ストリウスは「ラスボス役を演じる」ことで答えようとしました。
ただし、私が疑問に感じるのは、ストリウスの絶望があまりに深すぎるという点です。確かに、自分の作品が二番煎じだと言われることは辛いです。しかし、それが「人生全ての否定」に繋がるのか。この点については、ストリウスの時代背景(昔の創作観)を考慮する必要があります。
今の時代は「あり触れている設定を、いかにオリジナルに消化するか」という風潮です。しかし、ストリウスの時代は「唯一無を求められていた」時代だったのかもしれません。その時代背景を考えると、彼の絶望もより理解できます。
今後の展開として、私は「セイバーの続編」を期待しています。ストリウスが「全地善脳の書」を切り刻んだ後、その世界はどうなるのか。新しい「書き手」は現れるのか。この問いに対する答えを見たいと思っています。
最後に、私が感じるのは、セイバーというシリーズ全体が「創作の本質」を問い直した作品だということです。ストリウスというキャラクターは、その問い直しの中心にいるキャラクターです。彼がラスボスとして「向いていない」という事実こそが、彼を最高のキャラクターにしているのです。


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