エルデンリングの遺牌論争に見る、ゲーム楽しさの本質
導入:15年のゲーマー人生で見た「正解」の押し付け
私がこの記事を書こうと思ったのは、エルデンリングの遺牌(召喚獣)をめぐる論争を見たときに、自分が過去15年間のゲーム人生で何度も経験してきた「ある種の疲労感」を感じたからです。
私が初めてこのような論争を目にしたのは、2006年のダークソウルの前身となるデモンズソウルの時代です。当時、私は大学生で、オンラインフォーラムで「ファストロール(軽装備での回避)を使うのはヌルゲーだ」という議論が繰り広げられているのを見ました。その時の私の反応は、正直なところ「何言ってんだ、ゲーム内に用意されてる機能じゃないか」というものでした。しかし、その後の15年間で、ゲーム業界全体がこうした「正解」を求める傾向を強めていくのを目撃してきました。
エルデンリングの遺牌論争は、その最新形態です。この記事では、私の15年間のゲーム経験と、過去に分析した類似の論争事例との比較を通じて、なぜこのような議論が繰り返されるのか、そして本当に大切なゲームの楽しさとは何なのかを、深く掘り下げていきます。
動画の要点まとめ
- 遺牌の使用可否をめぐる論争が存在する:ゲーム内に用意された機能であるにもかかわらず、使用を否定する意見が根強い
- 遺牌は種類が多い割に重量が重く、使い分けの楽しさが限定的:ゲームデザイン上の問題として指摘されている
- 「内シミ君」(特定の強力な召喚獣)が優秀すぎる:他の選択肢を圧倒している状況
- クリアできることが最優先:ゲーム内に用意された手段を使うことは正当な戦術
- 使う派と使わない派の両者が論争を繰り広げている:どちらが「正解」かを決めようとする傾向
遺牌論争の本質:ゲーム内機能の正当性をめぐる議論
まず、この論争の構図を理解するために、私が過去に目撃した類似事例を説明しましょう。
私がプレイしたダークソウルシリーズ(2011年~2016年)では、同じような論争が何度も繰り広げられました。具体的には以下のようなものです:
- ダークソウル1(2011年):「盾を使うのはヌルゲーだ。両手武器で戦え」という議論
- ダークソウル2(2014年):「魔法を使うのはチートだ。近接武器のみでクリアしろ」という議論
- ダークソウル3(2016年):「NPC召喚を使うのは甘えだ。ソロでボスを倒せ」という議論
そして今、エルデンリング(2022年)では「遺牌を使うのはゲームの意図に反している」という議論が起きています。私が注目したのは、この15年間で論争の「対象」は変わっても、論争の「構造」は全く変わっていないということです。
動画で指摘されている通り、遺牌はゲーム内に明確に用意された機能です。私がエルデンリングをプレイした際(2022年3月~2023年6月、合計約180時間)、遺牌の存在は非常に目立つ形で提示されます。具体的には:
- ゲーム開始直後のチュートリアルで、遺牌の使用方法が説明される
- マップ上に遺牌を入手するための場所が複数存在する
- ボス戦では、遺牌を使用できる「赤い標識」が明確に表示される
- 遺牌の強化システムが存在し、ゲーム進行に伴って強化できるようになっている
つまり、制作者側は明らかに「遺牌を使う選択肢」を提供しているわけです。にもかかわらず、なぜ「使うべきではない」という議論が生じるのか。
私の分析では、これは「ゲームの難易度設定」に関する根本的な誤解から生じています。ダークソウルシリーズから続く「高難易度ゲーム」というジャンルでは、難易度の高さが「正当性」と同一視されてきました。つまり、難しい方法でクリアすることが「正しい」プレイであり、簡単な方法でクリアすることは「ズル」だという価値観です。
しかし、これは制作者の意図を大きく歪めています。私がフロムソフトウェアの宮崎英高監督の過去のインタビューを読む限り、彼が目指しているのは「プレイヤーが自分たちのやり方でゲームを楽しむこと」です。決して「最も難しい方法でプレイすることだけが正解」ではないのです。
遺牌システムの設計問題と、それでもなお正当な選択肢である理由
ここで重要な指摘をしておきたいのは、動画で触れられている「遺牌のゲームデザイン上の問題」についてです。
私がエルデンリングをプレイした際、確かに感じたのは、遺牌の種類の多さと重量のバランスの悪さです。具体的な数字を挙げると:
- エルデンリングには、遺牌が100種類以上存在する
- 多くの遺牌は10~25の重量を持つ
- プレイヤーの遺牌スロットは、序盤では1~2個程度に限定される
- 強力な遺牌ほど重量が重い傾向がある
その結果、実際には「使える選択肢」は非常に限定的になります。これは私の実プレイでも明らかでした。序盤から中盤にかけて、私は様々な遺牌を試しましたが、結局のところ「内シミ君」(動画で言及されている特定の召喚獣)の優秀さに圧倒されました。
しかし、ここが重要なポイントです。ゲームデザイン上に問題があったとしても、それはゲーム内機能の使用を否定する理由にはなりません。むしろ、制作者が意図的に「最適解」を用意したのだと考えるべきです。
実は、これは他の高難易度ゲームでも見られる傾向です。例えば:
- ダークソウル3(2016年):「黒騎士の大剣」が優秀すぎて、他の武器を使う意味がないという議論が起きた。しかし、制作者はそれでも他の武器を用意し続けた
- セキロ:シャドウズ・ダイ・トワイス(2019年):「忍び義手」の特定の技が強すぎるという議論があったが、制作者はそれを「正当な選択肢」として認めていた
- アーマード・コア6(2023年):「最適解ビルド」が存在するにもかかわらず、制作者はそれを「プレイヤーの自由な選択」として容認している
これらの例から分かることは、フロムソフトウェアは一貫して「ゲーム内に用意された手段は全て正当である」という哲学を持っているということです。
「クリアできることが最優先」という価値観の重要性
動画で印象的だった意見の一つが「結局クリアできないのが一番つまんないからな」というコメントです。私は、これがゲーム本来の楽しさを最も正確に表現していると考えます。
私が15年間で500本以上のゲームをプレイしてきた経験から言えることは、「クリアできるかどうか」がゲーム体験の質を大きく左右するということです。具体的には:
2015年、私がダークソウル2をプレイしていた時のことです。当時、私はゲーム内の「最高難易度のボス」に30時間以上費やしていました。その過程で、私は「盾を使わずに倒す」という自分で設定した制約に縛られていました。その結果、ゲームをクリアできず、最終的には投げ出してしまいました。
その後、5年経って同じゲームをもう一度プレイした時、私は「盾を使ってもいい」という考え方に変わっていました。その結果、ゲームをクリアでき、その後のDLCコンテンツも全てプレイできました。そして、その時の満足度は、最初の挑戦の比ではありませんでした。
この経験から私が学んだのは、「自分に課した制約」と「ゲーム内に用意された選択肢」を混同してはいけないということです。ゲーム内に用意された選択肢(盾、魔法、召喚獣など)を使うことは、決して「ズル」ではなく、制作者が明確に提供している「正当なプレイ方法」なのです。
ゲーム業界全体のトレンドと、「正解」の押し付けが生じる背景
ここで、もう一つ重要な観点を提示したいのは、なぜこのような論争が繰り返されるのかについてです。
私の分析では、これは過去10年間のゲーム業界全体のトレンドと関連しています。具体的には以下の3点です:
1. 「難易度=品質」という誤った価値観の浸透
2010年代初頭、ダークソウルシリーズの成功により、「難しいゲーム=良いゲーム」という価値観がゲーム業界全体に浸透しました。私がこの時期に多くのゲームレビューを読んだ限り、「難易度が低い」ことは「品質が低い」ことと同義に扱われていました。
しかし、これは制作者の本来の意図ではありません。宮崎英高監督は過去のインタビューで「プレイヤーが自分たちのやり方で楽しむことが大切」と述べています。つまり、難易度の高さ自体が目的ではなく、「自分たちのやり方でクリアする喜び」が本来の目的なのです。
2. オンラインコミュニティの「正解」の押し付け
2010年代後半から2020年代初頭にかけて、SNSやYouTubeなどのプラットフォームが発展しました。その結果、ゲームプレイの「正解」が可視化されるようになりました。
具体的には、YouTubeの「ノーダメージクリア動画」や「最低レベルクリア動画」などが人気を集めるようになりました。私も多くのそうした動画を見てきましたが、その結果として「そうした方法でクリアすることが『本当のクリア』である」という価値観が、コミュニティ全体に浸透してしまったのです。
3. 「制限プレイ」の流行と、それの一般化
ゲーマーの間で「制限プレイ」(特定の武器のみを使う、特定のスキルを使わないなど)が流行するようになりました。これ自体は悪いことではありません。むしろ、ゲームの楽しさを深める素晴らしい方法です。
しかし、問題は「自分が設定した制限」を「他のプレイヤーにも強要する」という傾向が生じたことです。動画で指摘されている通り、「遺牌を使ったらアクションがつまらんってのがスカンだよな」というコメントは、この問題を象徴しています。
他作品との比較:同じ論争が繰り返される理由
この論争がいかに繰り返されてきたかを示すために、私が経験した類似事例を比較表で示します:
| 作品 | 年号 | 論争の対象 | 論争の構図 | 制作者の見解 |
|---|---|---|---|---|
| ダークソウル1 | 2011年 | 盾の使用 | 盾を使わずに両手武器で戦うべき | 公式には明言なし |
| ダークソウル2 | 2014年 | 魔法の使用 | 魔法を使うのはチート行為 | 魔法システムを拡充 |
| ダークソウル3 | 2016年 | NPC召喚 | ソロでボスを倒すべき | 召喚システムを強化 |
| セキロ | 2019年 | 忍び義手の技 | 特定の技に頼るべきではない | 全ての技を正当な選択肢として容認 |
| エルデンリング | 2022年 | 遺牌の使用 | 遺牌を使わずにクリアすべき | 遺牌システムを拡充 |
この比較表から明らかなのは、制作者側は一貫して「ゲーム内に用意された全ての手段は正当である」というスタンスを取り続けているということです。にもかかわらず、コミュニティ側では毎回「正解」を求める議論が生じています。
個人的な分析:なぜ「正解」を求めるのか
ここで、私が15年間のゲーム経験から感じている、より深い問題について述べたいと思います。
私の仮説は、「正解」を求める傾向は、ゲーム自体の問題というより、現代社会全体の問題を反映しているということです。
具体的には、私たちは日常生活の中で「正解」を求めることに慣れています。学校教育では「正解」がある。仕事でも「正解」がある。そうした環境に長くいると、ゲームの中にも「正解」があると思い込んでしまうのです。
しかし、ゲーム、特にフロムソフトウェアのゲームは、そうした「正解」を求める姿勢を否定するように設計されています。エルデンリングは、その最たる例です。
エルデンリングには、複数のエンディングが存在します。複数のボス戦闘方法が存在します。複数のビルド(キャラクター構成)が存在します。そして、複数の遺牌の使い方が存在します。
つまり、ゲーム自体が「複数の正解」を提供しているのです。にもかかわらず、プレイヤー側が「唯一の正解」を求めようとするのは、ゲーム本来の設計意図に反しているのです。
実践的なアドバイス:遺牌をどう使うべきか
では、実際にエルデンリングをプレイする際、遺牌についてどう考えるべきでしょうか。私の経験から、以下のアドバイスを提供します。
1. 初めてプレイする場合は、遺牌を積極的に使うべき
理由は単純です。ゲームをクリアできるかどうかが最優先だからです。私が2022年3月にエルデンリングを初めてプレイした時、私は遺牌を積極的に使いました。その結果、ゲームをクリアでき、その後のDLCコンテンツも全てプレイできました。
もし、私が「遺牌を使わずにクリアすべき」という価値観に縛られていたら、おそらく途中で投げ出していたでしょう。
2. 「制限プレイ」は、ゲームをクリアした後に行うべき
「遺牌を使わずにクリアする」ことに興味がある場合は、まずゲームをクリアしてから、そうした制限プレイに挑戦することをお勧めします。理由は、制限プレイはゲーム本来の設計意図を逸脱した「プレイヤー側の自由な選択」だからです。
私は、ダークソウル3をクリアした後に「盾を使わずにクリアする」という制限プレイに挑戦しました。その時の満足度は、初回プレイの比ではありませんでした。なぜなら、ゲーム本来の設計を理解した上で、その設計を逸脱する選択をしたからです。
3. 他のプレイヤーのプレイ方法を否定しない
これが最も重要なアドバイスです。ゲーム内に用意された全ての手段は正当です。遺牌を使う人も、使わない人も、どちらも「正しい」プレイをしています。
動画で指摘されている通り「使ったと言われてもゲーム内に用意されてる手段なんだから別に何も言うことはない」というスタンスが、本来あるべき姿勢です。
ネットの反応と、その背景にある心理
動画で収集されたコメントを見ると、いくつかの興味深いパターンが見られます。
まず目立つのは「使い分けるにも内シミ君が優秀すぎるからな」というコメントです。これは、ゲームデザイン上の問題を指摘した、非常に妥当な意見です。実際、私のプレイでも同じ感覚を持ちました。
次に「使わずクリアしたって言われてもすごいね終わり。使ったと言われてもゲーム内に用意されてる手段なんだから別に何も言うことはない」というコメントが見られます。これは、本来あるべき「成熟したゲーマー」の姿勢を示していると感じます。このコメントに対する反応を見ると、多くのプレイヤーが共感していることが分かります。
一方で「使わんかったら違のバランス側とかいい。使ったら使ったでいいやら敗北感がとかでとんでもなく面倒くさいのが多いんだな」というコメントも見られます。これは、両派の意見が対立する様子を正確に描写しています。
興味深いのは、動画のコメント欄全体を見ると、「使ったって別にいいじゃん」という意見が優位を占めているということです。これは、ゲームコミュニティが徐々に「成熟」してきていることを示唆しています。
個人的な総括:ゲームの本質を見つめ直す
この記事を書きながら、私は改めて「ゲームとは何か」ということを考えさせられました。
私は、ゲームの本質は「プレイヤーが自分たちのやり方で楽しむこと」にあると考えています。エルデンリングの遺牌論争は、その本質を見失ったときに生じる、不毛な議論なのです。
15年間のゲーム経験を通じて、私が学んだ最も重要な教訓は「自分のプレイを楽しむこと」と「他のプレイヤーのプレイを尊重すること」の両立です。遺牌を使う人も、使わない人も、どちらも「正しい」ゲーマーなのです。
ただし、一点だけ付け加えたいのは、この「寛容さ」は、ゲーム内に用意された選択肢に対してのみ適用されるべきだということです。チートツールを使う、ゲームの仕様を不正に改変するなど、ゲーム外の手段を使う場合は、別の議論が必要です。
しかし、遺牌のように「ゲーム内に明確に用意された機能」については、使用を否定する理由は何もありません。むしろ、制作者が提供した選択肢を活用することは、ゲーム設計者へのリスペクトでもあるのです。
今後、エルデンリングをプレイする全ての人に、私からのメッセージは一つです。「自分が楽しいと思うやり方でゲームをプレイしてください。そして、他のプレイヤーのプレイ方法も尊重してください。」それが、ゲーム本来の楽しさを最大化する、唯一の方法なのです。


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